昭和44年7月14日 夜の御理解  【入力者:岡村和一郎】


 今日あのー、(ふくだor福岡?)の高橋さんがこういうことを言うておられました。えー、例えば、あーご神意を頂いても、そのご神意の頂き方、受け方というものを、最近のお取り次を願ってから、えー、お伺いさしてもらうことに対して、それを非常に神経を細かく使う、という意味なことを言うておられますですね。
 うーん、いわゆるその受け方、頂き方と、ま、例えば、うーん、先日の、おー、12日(?)ね、野球の時の、おーお弁当のことを、朝お伺いになりました。そん時にはもー、ちょうど高橋さんがお参りして見えた時、朝は降ってましたけども、おー、ご祈念後にお参りして見えて、頃はもう、はあ今日はこれお天気になるな、と思うほどにお天気がよかったんです。

 で、どんなんさして頂こうかいうお伺いでございましたが、準備をするなっていうことを、そういうような、もーそれを打てば響くような、あのーまあいうならばお答えというですかね、そのー、お伺いに対するご返事でした。準備をするなと。
 ですからあのー、それかそのまま、前の、おー、おー、時には、えー、雨が、雨が降るつもりで準備をせよと(言いました?)。雨が降るとにどうして準備せんなんだろうかとこう思ったって、雨が降るのに。
 (ほんなこ?)雨が降って、えー、もちろん野球は、あーあー、中止になったそうですけれども、入るだけは入ったらしいですね。ですから、そのー、こちらから、あ、まあ、雨が降るつもりで作った弁当だけは、きちっとおかげで、売れたとこういうわけなんです。

 今度の場合なんかは、うーん、いわゆる準備をするなと、こう言われる。ところが、お天気がよいもんですから、そのうちでは、あーやっぱり準備せんならんだろうという、いうような時でしたけども、いや、今日はもう準備はせんぞと、こういうわけなんです。そういう時に、そのー、おーまあ、準備をしなかったことによって、よし、売れ損のうても、もう、いわゆる(かまわん?)ということなんですよね。ね。
 でもこの頃は、もうたびたびその、今までと違った、その、おー、ご返事を頂くもんですから、もうえらい神経を細かく使います、という意味のことを言うておられますがね。私、皆そこんところをですね、あのー受け方、ね、いわゆる頂き方、自分の受け方、頂き方が悪うて、神を恨むような者があるといったようなことを、ね。

 えー、その(たん?)、教祖様はそういう受け方、あー、または頂き方の名人でおありになったと思いますよね。もうふつうでは、「神様、あなたあんなことをおっしゃったけども、こうでした」と、こう(言わんねばならにゃ場合?)でもです、ね、それをもう見事に受けておられます。ね。
 「もう、お前ばかりは試しようがない」というように、いうなら(御理解?)くださっておられますけれども、うーまあ、高橋さんのそれとは少しは違いますけれども、私は、おー、御理解でもそうですが、ご神意を特にお伺いさして頂いたならば、そのことに対する受け方、頂き方を、やはり心で練らなければいけないと思うですね。

 そういうところが、やっぱ細かに、にー、頂き違いますとですたいね、例えば、この高橋さんの場合なんかは、準備をするなと頂いておるけれども、この前もあげんじゃったから、例えば、あー降ったっちゃ、その、おー、準備さして頂いたら売れたから、といったようなものが、やはり混じってきておったら、売っただけは、あ、作っただけは、やはり損ということの結果になったかもしれませんけどね、そのへんのところを、例えば、それによって、まあ売れ損なう、それによって、売店の方から文句が出ても、それは問題ではない、というところを、すっきり頂いておられるところにですね、えー、高橋さんの信心があるというふうに、私は今日思うたんですけれどね。どうぞ。